河相我聞さんが、通信を含めた大学への進学を検討中のようです。
わてらの世代は「フリーター」という言葉が初めて出てきた頃で、「フツーに大学に行って就職するのはツマラナイ!」という考えが蔓延してきた頃でした。(誰が蔓延させたのか)バブルも弾けて新卒の求人も減ってきた状態。この先どうなるかわからない時代に、うまくこの考えがハマったのだと思います。
私も高校卒業後は専門学校を選んで、大学には行きませんでした。そんでその専門でもやりたいことしかやらないで、苦手な授業はサボって学食で“くず野菜”が入ったラーメン食べてました。
そのうち「笑っていいとも」が目覚まし代わりとなり、パチンコ・パチスロ・麻雀に明け暮れ生活が荒廃していったのですが、全然平気でした。
「いまこの生活をしていることで、逆に社会に出てから猛勉強しなきゃならないけど、そんなの別にいい。心の準備はできている。とにかく今は時間を無駄にすることを謳歌する時期だから、大いに楽しむのだ」
この思いで満たされていたからです。
なんとなく自分の先が読めていた…という感じでしょうか。
その予感の通り、社会に出てからいろいろ苦労はありましたけど、(まず、社会にでるということ自体が大変だった)けっこう頑張ったので、大卒の人に混じってフツーに社会人生活を送れていました。一個だけ痛いなと思ったのは、論文を書いたことも読んだことも無かったことです。それ以外は、分からないことはとにかく調べる、自腹でこっそりセミナーに行くなどして帳尻を合わせてきました。
それでも教養の無さというのは、寿命を縮めることに繋がります。
若い時はアタマがカラッポでも肉体主体の人生を送れますけど、年を重ねると、教養の有りなしが人生の舵取りを決めることになる(それを実現するのが肉体だから、肉体の鍛錬も必要なのですが)と感じています。
- 教養がないと、この先の人生を描けなくなる
- 描けないからお先真っ暗、人生に飽きる
- こんなつまらない人生、早く終わらせたい
- 「終わらせたい」が現実化し、病気になる、体が異常に衰える*1
- 死ぬ
別に長生き推奨するわけじゃないですけど、人生がつまんなくなって、何のチャレンジもしなくなって結果、衰えて死ぬのはちょっと嫌ですね。私の母親のように…
河相我聞さんがこうやって「学びなおし」を宣言することによって、同じ世代で行き詰まりを感じている人が後に続けば良いなぁ、と感じている次第です。
また、教養は同志を引き寄せるとも感じています。仲間と呼べる人がそうたくさんは居ないワタクシ、楽しい話を何時間でもできる同志がもっと欲しいなぁと、勉強をしながら願い続けているのであります。
*1:この段階になって人生に目覚めて激変する人も多いです。それも良いと思います